《3.建水古城 金平~蒙自~建水その2:蒙自~建水 

2011年1月12日(水)

4.石屏の郑营
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蒙自の『騰勝酒店』は100元で妥当なホテルでした。

《蒙自》に関する私の関心は《過橋米線》という名のビーブン料理です。

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   《過橋米線》は或る故事から名付けらるたのでした。

     雲南名物の米線は米からできた純粋な麺です。なかでも『過橋米線』は雲南を代表する麺料理。
     熱々の上質スープ゚にたっぷりの熱い油、そこに肉、野菜類を入れて軽く混ぜた後、麺を入れて食します。

     昔、中国雲南省の南湖に浮かぶ小島に楼閣がありました。水は清く柳が垂れ、竹林に囲まれて静寂。古木は天にも届くほど。
     読書するのに最も適した場所でした。

     とある旦那さんがこの楼閣で『科挙』を受けるべく学習していました。科挙に受かれば将来と名声を約束されたようなもの。合格
     のために日夜猛勉強しました。そんな姿をみた奥さんはご飯を楼閣へ運ぶのですが、一本の橋を渡って行かねばなりません。
     亭まで距離が有り、旦那さんが集中している事もあり、食べる頃には料理は冷め切ってしまいます。

     「どうにか暖かい物を食べさせてあげたい・・・」奥さんは心を痛めて色々と考えました。そこで、熱々の鳥スープ゚に熱い油を乗せて
     冷めない様にしたのです。栄養バランスを考えて薄く切った具と湯通した米線はそれぞれ別の皿に載せました。これらを持って
     橋を渡り旦那さんが勉強する場所まで運んだのでした。

     そんな甲斐あって旦那さんは好きな時に温かい麺にありつけて、科挙にも合格しました。旦那さんは『合格は自分の努力だけで
     なく、奥さんの米線のお陰だ』という事を決して忘れませんでした。

   これが『過橋米線』の由来とのことです。

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中国には歴史のある町が多くありますが、この建水もそのひとつ
でした。
余り日本で紹介されていない《建水》をご案内しました。
建水での宿泊では『朝陽大酒店』を強くお勧めします。

蒙自がこの過橋米線の発祥地だそうです。
ですから、蒙自にはその発祥地が保存されていて何らかの施設があるのではないかと考えていて、それを訪ねよう。
また、過橋米線の老舗や一流の店がある筈だからそこで本場の元祖の過橋米線を食してみようと思っていました。

でもそれははかない夢でした。蒙自の町自体にいにしえの故事を振り返らせる物は何もありませんでした。
古い町並みはなく、大きく発展して新しくなっていました。
更には《過橋米線》自体がいまや普通名詞になってしまっていました。

それを悟ったからには蒙自には用がありません。
次の目的地を『建水』にしました。

先ず蒙自のバスターミナルへ行く必要があります。
12月に2路の《公交、乃至は公汽》(=市内バス)に乗車した経験
から結構歩いて2路のバスを探して乗りました。
10分足らずで見覚えのある《蒙自汽車客運站》に着きました。
1元。9時前でした。
タクシー等に乗ると10~20元取られたでしょう。

建水への切符を買うと、直ぐの09:10発で23元でした。

バスは若干の遅れで09:15にバス站を出発しました。暫く走っ
て《大屯》という町のバスターミナルに立ち寄った後に《紅河大道》
に入り《鶏街》方向へと進み高速を経由して《建水汽車客運站》に
11時前に到着しました。

建水では二ヶ所行く予定でした。
建水古城・朝陽門
古鎮の団山村

面白くないのは最近の風潮として町中のバスターミルが少し離れた郊外に移転していることで、建水も
例外ではありませんでした。先ず旧市内へ入らなければなりません。バス站前の通りに《公交》の標識が
あり、多くの路線が『朝陽門』という所を経由しているのが判り、適当に乗って11:45頃に朝陽門で
降りました。どうやらここが旧市街の《へそ》のようです。
資料によると朝陽門は北京の天安門に似ていて《小天安門》とも云われているようですが、1389年の
創建で、北京の天安門は1417年ですから、逆に時代を考えると北京の天安門が建水の朝陽門を模した
のではないかと思います。入場無料で門の上に昇りました。
建水の街はその昔は城壁によって護られていて朝陽門はいにしえには《東門》とも呼ばれていたとのこと。

上に昇ると四方を見渡すことができました。朝陽門から一筋の石畳の
道が出ています。これが保存状態のよい石畳の道で朝陽路と呼ばれ
ています。保存状態がよく建水の名所のひとつになっているとのこと。

上から四方を見ました。下にはどの方向を見ても雑然とした古い町並みが見えます。
屋根瓦の漢民族の古い町並みの特徴がよく残っています。

このように門の上から
左回りに見ています。

①メインストリートから左へ約45度

②更に左に約90度

③その次へ90度(左回りです)

④最後に90度左に

表現が難しいのですが、『X』に垂直に石畳の道が出て
いて、左廻りに『X』状にぐるっと廻って撮影したものです。

建水は、元・明・清の三代に渡る雲南南部の
政治・経済・文化の中心だったということです。

ぐるりとひと回りした方向、石畳の道から少し
入った辺りに《朝陽大酒店》という看板が覗い
ていました。

よし、きょうの泊まりは条件が合えば老舗らし
《朝陽大酒店》にしようと思いました。

↓↓

小さな部分です、判りますか?

早速、朝陽門を降りて心当たりを付けた方向へ歩き出しました。石畳の道を100m足らず進むと右手に
立派な門構えがあり、その奥に《朝陽大酒店》が見えました。
前庭にはホテルの紹介文と共に昔の建水古城のイラストもありま
した。

それを見ると、朝陽門はその昔は『迎暉門』という名であったよう
です。また、朝陽大酒店の建物は『城隍廟』だったとのこと。

確かに、ホテルのレセプションの建物には、
『城隍廟』
建水県文物保護単位
建水人民政府
という立派な銘板が貼り付けられていました。

更には、イラストを見ると、今とは逆で、石畳の道とホテルのある
方が城壁の内部だったのですね。

先ず、大門をくぐり、次に石橋を渡り、そしてホテルへ
到着です。
  (実はここは単なるホテルのフロントがあるだけ
   です)

フロントのある建物に入りました。格調のあるレセプションです。

宿泊の部屋はレセプションの建物の裏に別棟としてありました。

政府登録の2星のホテルです。

いかにも風格のありそうなホテルです。恐る恐る中へ入りフロントで訊くと120元とのこと。
古いだけにネットはないとのことですが部屋を見せて貰っても悪くはないのでここに泊まることに
しました。

部屋は多少は古いものの結構綺麗でした。
何よりも、バスタブが付いているのには驚きと共に喜びでした。

古い開放前の形式のホテルで、多分党幹部の利用するホテルだった
のでしょう。(ホテルのカードには、《元政府招待所と書かれています》
今ではこのホテル自体が建水観光の名所のひとつになっていました。
フロントのオネエサンが美しくて写真を撮ろうとしたのですが拒否され
ました。残念。
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【隍=ほり、城隍廟】 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/11/09 07:37 UTC 版)

城隍廟(じょうこうびょう、チョンホワンミャオ、chénghuángmiào、簡体字: 城隍庙)は、城隍神を祭祀する為の廟所。
都市の外周に作られる「城」(城壁)と「隍」(堀)に対する信仰に始まる。
中国文化では、城隍神は都市の守護神で、その前身は水庸神である。
ただし、あまり神格は高くないようで、『西遊記』などでは、使い走りのような仕事をさせられていることが多い。

【歴史】
城壁と堀という意味での「城隍」という言葉は、後漢の班固の「西都賦序」に見られるのが最初といわれるが、
祭祀についての記述はない。「城隍」は「水庸」(堀と城)とも称し、農業にまつわる8種の祭祀「八蜡」の一つ
として『礼記・郊特牲』に現れるのが起源という説が有力である。

明確な記録としては、唐代に著された『北斉書・慕容儼伝』に「城隍神」を祭る祠があると記載されているのが
最初である。唐代には他にも張説の「祭城隍文」当時の祭祀について書かれた文章が伝わっており、すでに
一般化していたことがわかる。

宋代になると、国家行事のひとつとして城隍神を祭祀する機運が生まれ、城隍夫人も祭られるようになった。
明代には太祖朱元璋の信仰もあり、祭祀が制度化され、都市毎に城隍廟が建てられるようになった。
清朝でも明代の祭祀を受け継ぎ、国家行事のひとつとして地方官吏が毎月1日と15日に参拝することなどを
『欽定大清会典事例』で規定し、祭祀が続けられた。

台湾では、日本の統治後、皇民化運動で天照大神や天皇崇拝を奨励されたため、信仰の制限が行われた。
中国大陸では、文化大革命によって、あらゆる信仰が制限された。今日では民間信仰として復活している。

【著名な城隍廟】
中国大陸
上海城隍廟
杭州呉山城隍閣(南宋紹興9年(1139年)建立)
北京市西城区都城隍廟(元朝至元7年(1270年)建立)
山西省晋中市、楡次城隍廟(元朝至正22年(1362年)建立)
蘇州府城隍廟(明朝洪武3年(1370年)建立)
南昌城隍廟 (明朝洪武3年(1370年)建立)
寧波城隍廟 (明朝洪武4年(1371年)建立)
西安都城隍廟(明朝洪武20年(1387年)建立)
上海城隍廟(明朝永楽年間(1403年~1424年)建立)
広州城隍廟(明代に建立。文化大革命の時に閉鎖、廟内の神像は仏山に移され、レストラン、民家、倉庫、工場
         に改築されてしまったが、文物として再改装中。)
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『隍』が判らないので調べてみました。

さて、ぶらぶらしましょう。

門のホテルのある方と反対側です。ホテルの壁面の地図からすると、
昔はこちら側が外だったのですね。今はこちらが正面に見えます。
アーチ状の通りを潜ると石畳の現在のメインストリートです。

門の前庭は多くの人出で賑わっていました。

《石畳の道》はそれはそれとしていいのですが、古い町並みとして名高い《麗江》や《平遥》や《西江千戸苗寨》
等々でも整備はされていていいのですが、両サイドには観光客目当ての店舗ばかりで生活臭が全くしません。
それよりも私には朝陽門の上から眺めたゴタゴタとした低層の昔ながらの家並みの方に興味がありました。

先ずはホテルから石畳の道に出て左折。直ぐにある大きく口を開いている朝陽門を潜るとかなりの人出です。
どうも老人を中心とした連中の溜まり場に朝陽門前広場がなっているようです。
中国将棋への人だかり、トランプによるゲームへの人だかり、怪しげな物売りへの人だかり・・・
ひときわ人を集めていたのがこれでした。
言葉の通じない外人のあつかましさで前に陣取って見ていました。
どうやら大きな樹木の根っこらしき物を滋養強壮に利くとして売っているようです。試食(?)が始まりました。
薄くスライスして勧めています。そして私にも順番が廻ってきました。4cm四方、厚み2mm程を貰って口に
入れて噛んでみると、苦いこと、苦いこと。
この後、30分ぐらい消えませんでした。勿論、私には効能に拘わらず買う意思は毛頭ありません。
苦味を引きずってですが、門を背にして左前方の細い道へと入って行きました。
入り口には『馬市街』との表示がありました。また、石畳を利用しても『馬市街』記されていました。
左右はイスラム料理店が軒を連ねていました。
肉が干されていました。羊肉かなと思って訊いてみると牛肉とのことでした。
時刻は2時前でしたが、イスラム料理を食べる気はしません。
(これはUターンして戻る時に《馬市街》の入口を望んだところです。)
一旦広場へ戻って今度は反対側の右手奥の細い道を進みました。
『馬市街』に対してそこは『鶏市街』でした。

細い道をバイクが走ります。

全くの漢族の通りでした。イスラム色は皆無です。好対照です。

ここの古い地区の小路は門から放射状に出ています。従って次の小路を探索するには一旦門前
の広場に出て方向を定めます。次の小路に入る手前にあった饅頭売り屋台。小腹が空いていた
のでひとつ買って食べました。(揚げてありますが、胡麻をまぶしてあり、香ばしくて美味しかった)

朝陽門の上からの眺めの①には面白いものが写っていました。

そしてそれに必須な刻み煙草売り。これは当然同居だったり併営です。

面白いと思ったのは、雲南地方でよく見かける水煙草のキセル売りです。色んな種類がありますね。

左が再掲の①です。下はその中の切り取りです。

そして天秤棒売り。
農家のオッサン、オバサンの手作りだと思っていましたが、
商品として売られているのですね。

その少し先の民家です。
『哀哀我母』、『母去三更月』、肉親の(母親の)
死をこのような形で悼むのですね。

昼時を過ぎていましたが、遅い昼食を摂ることにしました。
陳列してある調理済みの食材から好みのものを好みの数だけ注文します。

すると皿に盛ってくれて奥にあるテーブルに座っているとご飯と共にサービスしてくれます。

私は、2種類の調理野菜と豚肉とえんどう豆の炒め物を注文しました。
かなりのお味で、ご飯も残さずに頂きました。

会計というと、4元でした。
後から値段を見るというのもおかしいのですが、ちゃんと価格表が掲示されていました。

よく見かけるので、
『葷』=肉類
『素』=野菜類
と理解していて、1葷2素になるから4元と思いました。

「デジタル大辞泉」によると、
葷=1 ネギ・ニンニク・ニラなどのにおいの強い野菜。
   2 ショウガやタデのような辛みのある野菜。
     ネギ・ニンニク・ニラなどのにおいの強い野菜

と出ています。要は精力のつく食べ物を意味するようです。

また、関連語句としては、『葷酒(くんしゅ)山門に入(い)る
を許さず 』
という文言を知っている方も多いと思います。
よく、禅寺の山門の脇の戒壇石に刻まれる言葉で、葷酒は、
心を乱し修行の妨げになるので、寺の門内に持ち込むこと
は許さない、ということです。

このように、日本では精力のつく『野菜類』を意味しますが、
本家の中国では先ず肉類を指すようです。

もう一度、石畳の朝陽路に戻って暫くぶらぶらしました。

通りの商店です。

これは銀行、溶け込んでいます。

このホテルも街並みに・・・

途中にある門を入って奥へと進むと、名所になっている『朱家花園』がありました。
昔の権力者の住居と庭園ということですが、30元の門票(入場料)が必要とのことなので入りませんでした。
というよりは、決して30元が惜しいのではなく興味がなかっただけなのです。

通りを進むと右手にこの門が出てきます。

これを100m程度進んでいくと、右手に『朱家花園』があります。

寒かったこともあり、当初から中を散策する気は失せていました。

この通りは趣のある建物が多くあります。

これはホテルになっています。

一方、これは立派な門構えの民家です。