《从江(=従江)の銀潭侗寨 

トップページへはこちらを・・・

トップ アイコン

2012年2月26日

1.2012年2月14日(火) 銀潭侗寨を目指す

銀潭侗寨探訪を終えました。
次は、龍勝の『銀水侗寨』とその周辺、そして旅の終わりへ行きます。

 この杉の葉をクリックして進んで下さい

貴州省の南東の《榕江》《従江》、そして広西になりますが《三江》は面白い所です。

《この期間の経費一覧》

上の地図と下の地図はほゞ同じ地域をカットしたものです。何故2枚も・・・と思われるかもしれませんが、記載されている集落名が
有ったり無かったりですからわざわざ2枚を掲げました。

その中で、既に訪ねたのは、順不同で、
  《増沖古楼》《黄崗侗寨》《小黄侗寨》《岜沙苗寨》《肇興侗寨》《堂安侗寨》《地坪風雨橋》
です。(三江は広西になりますので除いてあります)

泊まった従江の現代商務酒店のロビーに通じる階段の手前
の廊下に近郊の案内地図がありました。

この中に、『銀潭』という地名を見つけました。

《銀潭侗寨》は余り名高くありませんが、なかなかいい侗寨だ
ということを以前何かで読んだ記憶がありました。今回、この
地に来た動機のひとつでもありました。

従い、一晩寝て起きた2012年2月14日はそこを訪問すべく
ホテルを早々にチェックアウトして斜め向かいのバス站に向か
いました。
(チェックアウトは7時過ぎでした。昨夜のオネエサンは居ず、
別のオジサンでしたが、昨晩の100元のデポジットに対して
40元を戻してくれましたので実質60元の宿代で済みました。)

原図が不鮮明で仕方がありませんが、何とか
《銀潭》という文字が確認できると思います。

得ていた情報によれば、《榕江》《従江》は国道321沿いにあり、従江から榕江方向にバスで5分から10分程度走った所に橋があり、その地が
『四寨河口』というところで、そこで本道から分岐した道を辿ると『銀潭』へ行けるというものでした。
また、バスもあるとの不正確な情報もありました。

こうなれば従江から榕江のバスに乗って『四寨河口』を目指すことにしました。この区間のバスは30分に1本はあります。
08:45のバスに乗りました。四寨河口は車掌に通じました。5元とのこと。30分掛かって橋のたもとで降りました。

タクシーは乗らないという原則で旅をしていますから、バス站でオネエサンに《銀潭》と書いた紙を見せてバスはあるかと訊ねました。
ひとり目は、知らない、でした。そうすると横の係員のオネエサンが、それなら『邦土』行きのバスだと教えてくれました。更に08:00発
よとも。切符を買おうとすると、それはバスの中でと言われてしまいました。

改めてバスの発車時刻表を眺めると、行き先《邦土》として08:30、12:00、13:30、15:30の4本がありました。08:00はありませ
んが春節輸送の時期なので変更になっているのかなと思いつつ荷物をバス站の一時預けに預けて待ちました。
しかし、一向にバスは入ってきません。オネエサンは間違いで矢張り08:30が正しいのだと思って08:30迄待ちましたが、バスは来ま
せん。念の為にバス溜りを覗いてみても《邦土》という行き先を表示したバスはありませんでした。

ここ従江では《小黄》行きで経験があります。乗客が少ないと一方的に独断でキャンセルしてしまうのです。ですから、きょうの08:00、
乃至は08:30のバスはキャンセルになったのでしょう。(但し、きょうは08:00発の《小黄》行きのバスはありました。)

この『河口大橋』でバスを降りました。

  上:真直ぐに進むと《榕江》です
    渡った茶店の右手の道を入っていくと《銀潭》の筈

  右:橋を渡りきってここでバイクやミニワゴンを待ちました
 

ここで09:15から10:15まで1時間待ちました。
殆どのバイクやミニワゴンはこちらへは入ってきません。
1時間を無為に待っていたわけではありません。
たまに入ってきたバイクやワゴンを捕まえて《銀潭》と告
げても首を振られるだけでした。
また、バスも入ってきませんでした。ということは、08:30
の邦土行きが遅れていたのではなく、確実にキャンセル
だったのです。

ただ、銀潭と思える方向からのバスはやってきました。
そのバスには、従江⇔邦土との表示と経由地として、
《谷坪》と書かれていました。

1時間待ってもバイクもミニワゴンも捉まりません。

国道から進入してきたミニワゴンに望みを賭けましたが、振られて
しまいました。ただ、ドライバーに歩いて行けばどれ位の時間が掛
かるのかと訊くと、ここからだと半時間との答え。

それならばと意を決して歩き始めました。

石や砕いた岩の酷い道を進んでいきました。かなりの登り道の箇所
もありました。ところが、行けども行けども集落が現れません。

時間がどんどん進んでいきます。
戻る時間を計算しておかないと大変なことになりそうでした。季節は
まだ冬で、日暮れも早く、山の中で暗闇と想像すると恐ろしいことに
なりかねません。

結局、1時間45分歩いた所で無念ながら引き返すことにしました。
丁度12時でした。

戻りは下りですから、かなり楽でした。それでも1時間15分掛かりました。
やっと四寨河口へ戻ってきたのは13:15でした。

直ぐに乗り合いのミニワゴンが拾えて従江へ戻ってこれました。(国道にはかなりの乗り合いのミニワゴンが走っていました)
従江の到着はバス站から少し離れたミニワゴン溜りでした。他の客が5元支払っているので私も5元払いました。20~30元
かもしれないと考えていただけにバスと同じ5元で助かりました。

目的の銀潭に辿り着けずに疲れただけの1日でした。

  08:45 榕江行きのバスで四寨河口へ 30分
  09:15~10:15 待ち
  10:15~12:00 歩き
  12:00~13:15 下り

  ミニワゴン 13:45に乗車 5元

昨日は不本意ながら《銀潭》に行き着かず、疲労だけが残りました。
しかし、何とか再チャレンジをしようと心に決めました。しかし、昨夜の《現代商務酒店》は70元と価格も手頃なのですが寒すぎました。
そこで、バス站周辺で他のホテルをあたってみましたが、候補としたひとつは満室、もうひとつは外国人は駄目でした。

そこで仕方なく気乗りしないまま《現代商務酒店》へ行くと、部屋はあるとのこと。フロントのオネエサンに寒かったので暖かい部屋を
要望しました。すると別の部屋に通されましたか、オネエサンがリモコンを持ってきていてスイッチを入れると確かにエアコンから温風が
出ています。どうも昨晩の部屋のエアコンが故障していたか何かでしょう。これで助かりました。

2.2012年2月15日(水) 再挑戦:銀潭侗寨を目指す(雪辱を果たす)

翌、2月15日に再チャレンジをしました。昨日で様子が判っているので、ホテルをチェックアウトせずに、もう1泊する積りでほゞ同じ時間
バス站へ向いました。
《邦土》行きのバスは08:00に姿を現しませんでした。同様に昨日はあった08:00発の《小黄》行きもありませんでした。

意を決して従江からミニワゴンなりバイクをチャーターしようかな、
とも思ったりしましたが、原則に従い、榕江行きのバスで昨日と
同じように四寨河口へ向いました。でも、昨日は橋の手前で降り
たのですがきょうは橋を渡った所で降りました。

そこで、これも昨日と同じようにワゴンかバイクを待ちました。10
分位で一台のミニワゴンが分かれ道を入ってきました。そして合
図をすると停まってくれました。

つかさず、《銀潭》と書いた紙を示して交渉です。行ってもいいが
100元といいます。私が50元というとあっさりとOKです。
(荷物はホテルなので手ブラでした。これで、外人の旅行者と見ら
 れなかったのがよかったのかもしれません。)

右上の写真は昨日の写真と同じものですが、少し見えづらいですが、真直ぐ杉木立の方の道を昨日は
2時間近くも歩き進んで行ったのでした。ところがきょうのミニワゴンは上の方へと続く険しい道に入り、
進んで行きました。昨日は違う道を行ったのかもしれないと思いました。

そして結局30分近く車は走り、《銀潭》の集落に到着しました。50元は高くはなく、惜しいとも思いませ
んでした。

『銀潭』到着は09:05でした。

『銀潭侗寨』は後から知ったことですが、《上寨》と《中寨》と《下寨》から成ります。

《下寨》の風雨橋(=花橋)です。

風雨橋の状態、及び説明板の日付や壁面の絵画を見て判るように、比較的新しい物です。

私は中国語には殆ど知識がない為、読み間違いかもしれませんが、簡介(説明板)の日付が2011年8月18日
となっており、『戌子年六月初七開工』との表記があります。これを『戌子年(2008年)旧暦6月の7日目開工』と
して、更に開工=完成という意味とすると、ほゞ3年半前に出来たということになります。

《風雨橋》の直ぐ前には下寨の《寨門》がありました。

寨門の間から下寨の集落が顔を覗かせています。

寨門をくぐり、寨内へ200m足らず踏み込むと目の前に鼓楼がそそり立っていました。

《風雨橋》や《寨門》とは違い、この鼓楼は非常に年代物とは思いませんが、ある程度の歴史のある建物だと印象を受けました。

横の小路を進むと道案内がありました。

 →右はそれに記された『古井戸』です。

縁石が磨り減っていて年代を感じさせました。

道標にはありませんが急な道を上ると大杉がありました。立派な大樹です。

その小高い小さな丘の上に花橋風の建物がありました。
これが、道標の『社坛』(坛=壇)ではないかと思っています。

そして、丘の端まで行って下を望むと、アッと声を上げそうになりました。美しいフォルムの下寨鼓楼の全景が目の前にありました。

そしてほゞ同じ場所から目を左に移すと別の鼓楼(=中寨鼓楼)が視界に現れました。

下へとかなり急な石段を降りていきました。

途中で下の家の屋根が目に入りました。日本でもよくある
ように杉皮を瓦替わりに利用していました。
(左の左下は煙突です)

殆ど下りきった所に井戸がありました。これも下寨の古井戸に匹敵するような井戸です。

透き通った清らかな湧き水です。外気温が低く、地下水だから温度差があることから《湯気》がたっていました。
多分そのままで飲めるのでしょう。

次々と女性たちが水を汲みにやってきます。それを眺めているのが楽しかった。

中寨鼓楼は、概観は一見地味に見えました。
ところが、内部の龍は素晴らしいもので、圧倒されてしまいました。

中寨には戯台(=舞台)もありました。

これにより、《銀潭》には侗寨を特徴付ける、
  1.鼓楼
  2.風雨橋(=花橋)
  3.戯台(=舞台)
の三点セットが揃ったことになります。

また、公共施設と思われる比較的大きな建物がありました。

如何にも中国人好みで、ひとつの建物に数多くの
プレートが掲げられていました。

そろそろ《中寨》も見終わりました。残るは《上寨》です。住民に上寨の方向を訊いて道を進みました。
そうすると順序が逆になりましたが、中寨の門が現れました。

《下寨》と《中寨》はくっついていました。境目が判らないほどでした。
それに対して、《上寨》は少し離れているようです。住民によると、直ぐで、坂を上って通りに出たら右とのことでした。

ひどい泥濘の道でした。

そこを親子連れが歩いていきます。

左右に杉の植林がありました。

杉は杉ですが、日本の物とは種類が若干異なるようです。(後程、述べます)

坂道を殆ど上り切った所で振り返ると、中寨の鼓楼(手前)と、その奥に小さく下寨の鼓楼を望めました。

さて、一旦通りに出て教えられた通りに右手の道を進み、坂道を下りると《上寨》が出現しました。

奥に鼓楼が見えます。

《上寨》の家並や情景をご覧に入れます。

通ってきた池沿いを振り返りました。

これはガチョウですね。

上寨の鼓楼をご覧下さい。

鼓楼前の広場には肉屋が店を出していました。

オバアサンというかオネエサンがひとりで店番でした。

古式な秤が現役で活躍ですね・・・

鼓楼広場の肉屋の出店の後ろの建物にこのような看板が掛かっていました。

この種の看板を下寨・中寨で見ませんでし
た。ということは、銀潭の中心は上寨なの
かも知れません。
また、この地は『従江県谷坪郷銀上村』
との名のようです。

上寨鼓楼の内部です。

鼓楼を支える4本の柱の隅に牛の角が飾り付けられていました。

『銀楼映潭』(?)、何の意味でしょうか・・・
地名の《銀潭》の由来?起源?

一寸割れていて残念です。

上寨を鼓楼を過ぎて集落の奥まで進んで行きま
した。
進んで行けば中寨・下寨へ道が続いているので
はないかと思ったからです。

でも、矢張り道は途切れていました。つまり、下寨
と中寨は繋がっていて、ひとつの集落のようにも
見えたのですが、上寨は下寨・中寨とは離れてい
て独立していたということになりました。

この草は牛馬の食料です。

途中で興味深いものを見つけました。
これは、『棺おけ』です。この地では、生きている間に自分が入る棺おけを作っておくという習慣があると聞いたことが
あります。未だ完成していませんので、製作者はまだ十分に時間が残っていると考えているのでしょうか・・・

この地の多くの建物は侗族の伝統形式による木造3階建てでした。

単に吊脚楼といったり吊脚木楼とも呼ばれます。
1階よりも2階が大きく、更に3階は2階よりも大きいという特徴があります。
従い、断面を見ればよく判りますが、順々にせり出しているのです。それは山間の限られた平地を
有効に活用するために生み出された建築設計方式でしょう。
また、宙に浮いているような柱の先端には彫り物があり、なか
なかの芸術作品のような趣さえもあります。

右は2階建てですが、大きく上下別々の方向に
左右に傾いています。この様な建物を数多く見
ました。

私は専門家ではありませんが、建築中を見ても
《筋交い》がないのです。それがこの傾きの原
因だと思っています。

尚、この建築様式は《苗族》にも共通です。

さて、ここでは現代は杉の植林が大きな産業になっています。
これは、下寨の寨門前にあった《母なる杉の木》ですが、仔細に観ると日本の杉と少し異なります。
また、この杉の花粉は問題の春先に日本で蔓延するスギ花粉アレルギーを引き起こさないとも言われています。

このようにして売られている杉の苗木を
多くの場所で目にしました。

この杉の葉です。

冬場で外部からの来訪者は居ませんでした。

帰る手段ですが、バスなどなく、ミニワゴンもなくて住民に四寨河口
まで乗せてもらうようにバイクに頼みましたが相手にして貰えません
でした。

意を決して歩くことにしました。3時間位で四寨河口に着けるだろう
との思いで歩き始めました。暫くすると、男の村人私に追い付きま
した。そして私の行き先を聞くと《近道がある、着いて来い》というの
でその通りにしたのですが、ご覧のような道で閉口しました。

さて、2日に亘る(?)《銀潭》の探訪を終えました。初日は到着できす、2日目にやっと辿り着くことができました。

泥濘を抜けて通りに出てほっとしました。

でも、もう歩く気力が残っていません。するとミニワゴンが
背後から来ました。捕まえるて行き先を言うと、四寨河口
までならば、というので乗りました。

そこで言われた通りに5元支払うと、ミニワゴンは橋の手前
で右折して榕江方向へ走り去りました。

その後、バスに乗り従江のバス站まで行ってホテルに戻り
ました。

この泥濘の細い坂道を下りながら、ここで足を踏み外して尻餅でもつくと悲惨だいう思いで、一歩一歩慎重に
足を運びました。

その時にふっと頭に浮かんだのが、最近のベストセラーである五木寛之の『下山の思想』でした。

本の内容
  どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。
  すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。
  しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。
  再び世界の経済大国をめざす道はない。
  敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。
  「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。
  成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。

目次
  いま下山の時代に(下るという大事なプロセス下山しながら見えるもの ほか)
  下山する人々(法然とフランチェスコ平安末期に流行した今様 ほか)
  いま死と病いを考える(この世で絶対的な真実病人大国日本の憂鬱 ほか)
  大震災のあとで(言葉もなく、おろおろと下山途中の生き地獄 ほか)
  ノスタルジーのすすめ(「時には昔の話を」のとき古い記憶の再生装置 ほか)


「下」の付く言葉からは、マイナスのイメージが浮かぶ。
しかしいま、戦後登頂を目指し登り続けて来た時代から、「下山」の時代へと移行し始めている。
「下山」しながら初めて見えてくるものがある。
3・11後の日本が目指すべき新たな山頂とはどこか?
私たち人間の、そしてこの国の行く末を考えさせられる1冊である。
 
(2012年1月17日)

《或る書評から・・・》

私には難しい内容は解りません。
ただ、NHKの五木寛之へのインタビューでの彼の言葉が印象に残っています。

  登山の際、登りは頂上という目標があるから一心不乱に登頂を目指して喘ぎ喘ぎ上がっていく。景色を
  眺め、堪能する余裕もない。
  しかし、下山の際には、疲労も少なく、登頂を果たした後だけにゆとりもある。そうなると、遠くの景色を
  楽しみながら、路ばたの花を賞でながら下りることができる。途中で何度でもいくらでも休憩しても問題
  はない。登りの苦労を振り返ってもよい、遠くに思いを馳せることもできる。
  日本はいまその時期にあるのだ。


ということでした。

苦労して行った銀潭は素晴らしかった。
もう一度行ってみたい。

また、『谷坪』という町(?)・集落(?)へも・・・

月日(曜) 交通 宿泊 食費、他
2月14日(火) バス 5 従江 70 荷物預け 3
ミニワゴン 5 おこわ 2
煙草(1箱) 3
ビール(2本) 7
2月15日(水) バス 5 従江 70 パン 5
チャーター 50 ビール(2本) 7
ミニワゴン 5 煙草(1箱) 3

2月15日の行動

  08:05~08:30 バス 従江~四寨河口 5元
  08:40~09:05 ミニワゴン(銀潭へ)  50元
  
  12:00~13:40 徒歩
  13:50~14:00 ミニワゴン(四寨河口へ)5元
  14:20~15:00 バス 四寨河口~従江 5元

コウヨウザン(広葉杉、檆、学名:Cunninghamia lanceolata)
  コウヨウザン(広葉杉、檆、学名:Cunninghamia lanceolata)は、中国南部原産のスギ科コウヨウザン属の常緑針葉樹。
  大きいものでは樹高30m以上、直径1m以上に成長する。日本には江戸時代後期に渡来。
  本来、漢字の「杉」は広葉杉(コウヨウザン)のことを指したといわれる。
  現在でも中国においては日本の杉の仲間を「柳杉」と呼び、杉(コウヨウザン)と分けて呼ぶ。
  世界的にはコウヨウザン、ラクウショウ、セコイアなどの広葉型の杉が主流であり狭葉型のものは少数である。


コウヨウザン
  コウヨウザンは中国南部から台湾原産の常緑針葉樹。
  樹高30m、直径1m以上に成長する。和名はコウヨウザンであるが、漢字では広葉杉と書く。
  葉は長さ5cmほどで先端は鋭く尖っておりさわると痛い。
  茎に螺着しているが、斜めに伸びる枝では葉の根元が曲がり、ほぼ左右に広がって付くので対生に見える。
  葉の裏には白い2列の気孔線がある。
  江戸時代の後期に渡来し、神社の境内などに植栽されていることが多い。
  スギのように天高く伸びる性質が宛て木として好まれたことや、中国を連想させるエキゾチックさに魅力があったのかもしれ
  ない。
  仏教との関係があるのかもしれないが、神社に多いことを見ると、日本が東南アジアに深い関心を持ていた時代の名残を
  連想させる。
  中国では重要な造林樹種である。

       

     


コウヨウザン
  和名:コウヨウザン
  所属:スギ科 コウヨウザン属
  学名:Cunninghamia lanceolata (Lamb.) Hook.
  特性: 常緑高木。樹冠は広円錐形をなす。樹皮は褐色で長い繊維状に脱離する。
       葉は偏平、剛強で鎌状長披針形をなし、先は鋭尖で光沢ある濃緑色を呈し、縁には細かい鋸歯がある。
        雌雄同株。球果は頂生し、卵球形、初め緑色、成熟して褐色となる。
       種子は黄褐色、偏平で楕円体をなす。一果鱗内に3個あり、横に幅の狭い翼がある。
  分布: 中国南部地方、台湾、インドシナなどに天然分布する。日本には徳川時代の末期に植栽されている。
  用途: 材は建築材、器具材、船舶材、マッチ軸木用材などに使用され、樹木は庭園、公園に植栽されている。
  備考: 材は白蟻の害に耐えるから、台湾において特に利用されている。和名コウヨウザンは「広葉杉」である。
  中国名は「杉木」または「沙木」である。
  開花時期: 4月
  果実成熟期: 10月

        


コウヨウザン(こうようざん) 日本大百科全書(小学館).【広葉杉】
  [学名:Cunninghamia lanceolata (Lamb.) Hook.]
  スギ科の常緑高木。中国では本種を杉と書き、和名の杉とは異なる。別名オランダモミ、リュウキュウスギ。
  大きいものは高さ35メートル、直径1メートルに達する。樹皮は赤褐色で縦に裂け、スギに似ている。
  枝は水平に長く伸びる。葉は互生するが、枝の両側にやや平らに並び、硬質で鎌(かま)状の披針(ひしん)形をなし、
  先は鋭くとがる。
  雌雄同株。
  4月に開花する。雄花は楕円(だえん)状球形で枝先に集まり、雌花は卵状球形で、長さ3~4センチメートル、枝先に1個
  ずつつく。
  球果は卵球形、鱗片(りんぺん)は革質で先はとがり、外方に反り返る。種子は1鱗片に3個ずつつき、翼がある。
  中国大陸南部、台湾に自生する。日本には江戸時代に渡来し、仙台市以南の社寺境内、公園、学校、庭園などに植栽
  される。
  材は建築、屋内工作、箱、棺、天井板、マッチの軸木、農具などに用いる。
  [執筆者:林 弥栄]

《杉》をネットで調べました。意外にも日本の杉とはかなり違う種だということが判りました。

この地で見た、また、写真にも撮った《杉》はまさにこのコウヨウザンでした。意外に奥の深いものですね。

          
図書館へ足を運ばずにここまで調べられるのですから便利になったものです。

《コウヨウザン》ということは分かったのですが、まだまだ疑問が残っています。
更にしつこく調べました。

先ず、和名がコウヨウザンということですが、上の引用文で『コウヨウ=広葉』であろうと思いました。では、ザンとは?手持ちの字典で
調べました。『杉』という文字の発音は、ピンインで『shan』でした。つまり、和名のコウヨウザンを漢字で書くと、『広葉杉』ということ
なるのですね。

再度、『杉』検索してみると、関連ワードとして、『紅豆杉』というのがありました。
『紅豆杉』? 確か見たことがある・・・  下寨の入り口にあった杉だ。

                   



次に、『紅豆杉』で検索です。
意外なことに、この『紅豆杉』=コウヨウザンで、ガンに有効な漢方薬として日本でもかなり販売されているようです。


  のHPから引用
   

   
   身近に持てば厄除けになる、匂いを嗅げば長生きをする、と伝えられた雲南紅豆杉を、かの聖徳太子は笏(シャク)
   に用いたといわれております。日本では七世紀初に隋の王室からの贈り物として日本の皇室に伝わったのが最初と
   されていますが、この樹木の歴史は地球最古に遡ります。
   ここに雲南紅豆杉の歴史と特性をご紹介いたします。


   
   
   雲南紅豆杉は、新生代第4紀氷河期から厳しい大自然の風雪に耐え今日まで生き抜き、現在残存している56種の
   植物の中でも、地球最古の最も貴重な仙樹です。2億年前の中生代(恐竜繁栄期)から一属一種の太古のままの姿
   で生き延びたため、「太古の生きる化石」とも呼ばれています。
   また、最も「生命力が強い」、即ち「気が強い」樹木ともいわれています。

   
     雲南紅豆杉は、世界で最も磁場の良い所として有名な秘境地、中国南方の雲南省など限られた地域の、植物生息限界
   海抜をはるかに超えた、主に海抜3300m~4100m付近に原生林のまま群生しています。
   日本の富士山の頂上より高いところにも自生しているわけですから、まさに驚きです。
   世界の樹木中、最も海抜が高い所に生息しているだけでなく、高山植物としては異例の、平均樹高21m、平均幹周
   5.6m、平均樹齢は3000年(中国科学院調査)という極めて生命力の強い樹木です。
   特に樹齢3000年以上の雲南紅豆杉を「白豆杉」と呼び、その生命力の強さに敬意を表して「白豆杉」という別名
   が生まれました。

   
     中国では、2200年以上前の秦の始皇帝の時代から、歴代の王朝で、大変貴重な王室専用の仙樹として大切にされ、
   重用されてきました。
   万里の長城を作ったことでも有名な秦の始皇帝は、中国統一という偉業を成し遂げた後、不老不死を夢みるようにな
   ります。始皇帝から命を受けた徐福をはじめとする臣下は、世界中を旅しながら、見つけだしたもののひとつが雲南
   紅豆杉といわれ、仙人になれる仙樹とも呼ばれる由縁です。


   
   歴代の中国の王室、日本の皇室では、大変長い間重宝がられた王室・皇室ゆかりの仙樹ですが、現代に至るまでその
   存在が世に出ることはありませんでした。
   それは、中国政府がこの貴重な仙樹である雲南紅豆杉を大自然からの贈り物として保護する目的で、法律で国家一級
   保護植物に指定し、伐採禁止、売買禁止にしているからです。
   歴史に残るであろう中国の英断は、昭和20年の終戦直後から、雲南省の高山地域に住む少数山岳民族である磨些族
   (納西族の元祖)と協力して、毎年植林事業を行った事にあります。その結果、ようやく絶滅の危機を脱したとの判断
   から、中国政府は、さらなる植林事業と研究推進の予算獲得政策により、米国と日本に限り、例外的に限定輸出するこ
   ととなりました。
   日本唯一の独占輸入製造元として()紅豆杉が、雲南紅豆杉を主原料とした2種類の天然樹木茶(紅豆杉茶・優喉茶)
   とエキス粒を商品化しました。